2018/04/23
わたしたちはいつも理由とか意味とかを探している。
犯人が殺人にいたった動機は?
あの子なんでアイツと付き合ってんの?
この絵画はなにを表現しているか?
なんてことを、いつもわかろうとしている。
わたしたちは遭遇した物事のほとんどすべてについて、無意識にわかろうとする。
たとえ遭遇したものをなるべくありのままに受け止めようとしてみても
自分のなかからいろんな知識が、経験が、意味が理由が、どんどん語りかけてくる。
わたしたちのなかには幾パターンもの物語が蓄積されていて
かならず、どれかに当てはめて理解させられる。
わたしが生きるとき、ある物語をなぞって生きているわけではないのに
生きることを見つめるとき、どうしてか物語になっている。
わたしはひとつひとつの瞬間を、ただ生きてきただけのはずなのに
脳みそが勝手に知っている文脈・意味・理由なんかをもってくる。
人生は、たちまち物語になっていく。
物語は自衛であり、脅威である。
わたしたちはいつも物語に守られていて、ときに苦しみから解放してくれる。
トラウマさえも乗り越えさせてしまう力がある。
わたしたちはいつも物語に囚われていて、ときに目の前のわけのわからぬ現実を
たったひとつの悲しい解釈に閉じ込めてしまうこともある。
だから、ときどき意味や理由を排除してみたくなる。
わたしはぼーっと眺めてみる
ハサミを鋭利なかたちをした金属の塊として
わたしはぼーっと聴いてみる
ラジオから流れる声を音の連続として
わたしはぼーっと思ってみる
父や母や弟をひとりの人間として
わけの分からないことは、分からないままに
知っている物語に閉じ込めてしまわずに
ただ存在するだけの時間を 物語の追いつけない時間を
実際には不可能でも、なるべく過ごそうとしてみる。
それは、人生が既存の物語に完結してしまうことへの、
自分だけの経験が安易に誰かに共有できるものに"落ちぶれて"しまうことへの、
小さな 儚い 反抗なのだと思う。
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