2021/07/26
最近ずっと心に引っ掛かっていた「言葉で表現できない」「言葉にするのは野暮」という言い回しについて、ちょっと時間をかけて考えた。
1
先日、森美術館で開催中の「アナザーエナジー展」に遊びに行った。作品が作家本人のインタビュー映像とともに展示され、作家性と作品群を並べて楽しむことができる構成になっていた。
芸術家 ミリアム・カーン氏の展示で、以下の発言がインタビュー映像の中から切り取られて壁に掲示されているのを見つけた。
それが一体何なのかを知らずに、
作品を見ることが
できなくてはなりません。
アートはすべての人にとって、
言語を介さず
理解されるべきなのです。
作品を見ることが
できなくてはなりません。
アートはすべての人にとって、
言語を介さず
理解されるべきなのです。
彼女の作品は人間をモチーフにしたものが多かった。笑顔とも怒りともとれる表情、柔らかいタッチに恐怖を感じる色づかい。こうして断片的な要素を挙げることはできるが、言葉でその絵を説明しつくすことはできない。それがアートだった。
2
一方で、マンガ家 藤本タツキ氏の新作読切マンガ『ルックバック』が公開され、これまでの作品とはまったく違う方向から描かれた物語が多くの人に衝撃を与えた。
私のタイムラインにあふれた本作に対する感想のなかには、「言葉じゃ表現できない」「言葉で表すのは野暮だ」というようなものがたくさんあった。
たしかに藤本タツキというマンガ家は絵の力だけで多くのことを伝える天才だ。しかしそれが言葉を否定していることにはならない。むしろ言葉の量を減らすことで言葉の力を引き出していると言ってもいい。非言語で多くを語るすばらしい作品に出会ったとき、人はなぜその感動を「言葉にしてはいけない」と感じるのだろうか。
◆
1「言語を介さずに理解されるべき」
2「言葉で表すのは野暮だ」
2「言葉で表すのは野暮だ」
1と2は同じことを言っているようでまったく違う。1は「芸術作品は言語外のものを表現する」という話で、2は「作品について言語で表現すべきでない」という話だ。
最近これらの混同が深刻なレベルで起こっていて、非言語こそ"真実の"表現 という思想が強まっている、つまり表現活動において言葉がもつ力がどんどん弱まっているような気がする。言葉が本質的でないものとされ、言語以外の表現に劣るものとして扱われている。人が言葉による表現を信じようとしなくなっているのだろうか。
以前私も、自身が執筆した作品レビューのなかで「この感情を説明するのは野暮」と表現したことがあった。実際にそう感じていたし「説明はダサい」という感覚はいつも頭のどこかにある。しかし文筆を愛する身として、私はこの状況や自分自身と真剣に向き合わなければならない。
◆
言葉は音や絵などと同様に、直接的に感覚を共有しあえない人間をつなぐひとつの伝達手段である。言葉は音や絵よりも優先して教育に取り入れられ、多くの人が訓練を経てある程度使えるようになったことで圧倒的な「伝える力」をもつ手段となった。
技術が急激に進化して言葉は指先ひとつで人に届けられるようになり、さらにはここ10年くらいで音や絵や映像までもが遠くにいる人にも気軽に伝達できるようになった。非言語表現を簡単に相手に渡せるようになった時代だから、言葉がもつ力が小さくなってしまったということなのだろうか。
◆
表現とは誰かが「生きているうちに心が動いたこと」を何らかのかたちで伝えようとするものだと思う。
人はテレパシーが使えない。だから手を替え品を替え人はいろんなことを表現してきた。それは絵や音楽や映像であり、言葉でもある。
人はテレパシーが使えない。だから手を替え品を替え人はいろんなことを表現してきた。それは絵や音楽や映像であり、言葉でもある。
言語化されないものを表現するのがアートであるならば、そのアートを受け取った私が感じたことはどのように表現すればよいだろうか。作品そのものの写真や動画をそのまま「シェア」しても、私が受け取った感動を相手に伝えたことにはならない。
表現において重要なのは、感動させられた対象についてなるべく情報を損ねず伝えることではなく自分がどのように感動したのかを伝えることだ。感動を言葉にするのが野暮なら、絵でも音楽でも映像でも等しく野暮なはずである。
◆
ある景色を見て心が動いたとき、言葉は例えば「静けさの裏に大きな熱を孕んでいるように見えた」とか「混沌のなかにひとり放り出されたような感覚に陥った」などと表現する。
言葉にすると、表現者と受け手の間に共有された経験がなくても一気にその感動が伝わりやすくなる。さらには同じ対象にまったく異なる解釈を与え、受け手の見方を変えることもできる。言葉がもつ「伝える力」と「意味を与える力」はとてつもなく大きい。
表現において言葉が軽視されてしまうのは、先述したように人々が日常的に使っていて、絵や音楽などに比べれば特別なスキルがなくても自由に扱えて簡単に発信することができるものになったからかもしれない。
だけどやっぱり私は誰かの文章を読んで、詩(詞)や小説を読んで、セリフを読んで感動する。誰かから手渡された言葉から、私の見る世界へ新しい解釈を与えられることにわくわくする。言葉の力はいまも絶大なものとしてある。
◆
結局、表現における言葉の価値を守っていくためには表現者が自らの発信する言葉を洗練させていくしかない。言葉の力を信じたくなる言葉を紡いでいくことにしか救いはない。それはなんの表現でも同じことだ。
「言葉にするのは野暮だ」とか「言葉で言い尽くせない」という言い方もひとつの表現ではある。しかしそれはやはり裏技というか反則技というか、決して気軽に使ってはいけないやり方だったと反省している。
言葉の可能性を広げていくのは言葉を発する自分だということを忘れないでいること、そして私自身が誰よりも信じられるような自分の言葉を発していくことがだいじ…というスタート地点に戻ってくるような話になってしまった。
これからもあきらめず、楽しく言葉に挑んでいきたい。