2021/10/25
週末、ある緑地にでかけた。信じがたいことに最近少し自然に興味を持ちはじめたのだ。都会にあこがれ意気揚揚と上京し、バイト代を服と音楽と人付き合いだけに充てていた18歳の私が目の当たりにしたら「想像より早くオバサンになってる……」と絶望するだろうか。しかし今の私には、植物や虫や動物をよく観察することが、何よりオルタナティブだ。
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実家にペットがいなかったからか、動物が苦手だった。犬、猫、鳥、ハムスター……どんなにかわいらしい見た目でも、未知の生物として恐怖を感じる。
26歳の頃、下宿先で1年間2匹の猫と一緒に暮らした。猫との生活方法は、私を下宿させてくれた叔父叔母から学んだ。同じベッドで昼寝をし、腹を空かせているようならごはんを与え、すり寄ってくる彼らから暖をとり、私は生まれてはじめて動物に心からの慈愛を向けることができた。
猫たちのことはかなりすきになれた自信があるけれども、いまもどこか遠慮してしまう。たとえば自分の都合で抱きあげたり写真を撮ったりすることがどうも苦手だ(写真はいつも隙を見て隠し撮りしている)。いつでも「言葉で伝えられないだけで嫌なんじゃないか」という心配が頭のはしっこにあり、猫の機嫌をうかがっている。猫がどう感じているのかわからなくても、彼らに対して「いい距離保ちますよ」というホスピタリティの姿勢を見せんとする自分を度々発見する。
そんな私の"人間的気遣い"など知る由もない猫は、よく食べたものを吐き散らかす。ソファの上だろうが廊下だろうが関係ない。その様子や吐き出されたものを見ると、正直なところ、少し引いてしまうし「触りたくない」と思ってしまう。愛があればそんなのは、どうってことないんじゃないか……?不快感と嫌悪感を覚える自分がものすごく狭量な人間に思えてくる。仕方なく吐瀉物を処理することは何回かあったけれども、とうとうその気持ち悪さが消えることはなかった。
赤ちゃんに対してもそうで、私はあまりにも無垢な存在に対していつもかなり気を遣ってしまう。物言わぬ生き物に、物言わぬがゆえの愛らしさと同じくらい怖さを感じている。
物言わぬ生き物は、わけもわからず私の顔をじいっと見つめてくる。物言わぬ生き物は急にわめき、どこでも排泄し、なんでも舐め、突然に死んでしまうこともある。
物言わぬ生き物は、わけもわからず私の顔をじいっと見つめてくる。物言わぬ生き物は急にわめき、どこでも排泄し、なんでも舐め、突然に死んでしまうこともある。
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青森という田舎の出身だけれども、私の脳はびっくりするほど都市化している。平成生まれともなると、子どもが野山を駆けまわって育つような場所は本州最北端の地でも限られていた。田んぼを埋めて作った「ニュータウン」と名付けられた土地に住み、進学校で学びを、ライブハウスで遊びを知った私が、東京にあこがれるのは当然の経緯だった。あまりに順当すぎて自称パンクスの私の反骨精神が泣いている。
ビルや街、公園、埋立地……都市は人間が考えて作ったものでできている。解剖学者の養老孟司先生は、都市を「脳化社会」と呼ぶ。私たちは人間の脳のなかに住んでいるようなものだと。
都市のなかで、物言わぬ生き物たちが人間の介入なしに生きていくことは難しい。人間の設計する「こうすればああなる」からはみ出た生き物は存在を許されていない。だから都市で暮らしていて、街なかでそういう生き物に出会うときにはだいたい管理者がいる。飼い主、親、花屋や庭師。
都市化しすぎた私の脳は、物言わぬ愛猫に対して都市で暮らすマナーと感覚を無意識に当てはめていたのかもしれない。本来、生命は人間が設計してゼロから創出することができない、自然のもの。私自身も物言わぬ生き物たちと同じ、自然の存在だというのに……。
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私が自然に興味を持ったのは、自分自身も自然の存在だということを、ようやく感覚で受け入れたからだ。人間の脳が作り出すものにはもれなく意図や目的があり、効果が計測されて、もっと効率よく目的を満たすものへ改良されていく。すべてが理解され、予測やコントロールが可能になるような世界に向かっていくことに、ついに自然の存在としての自分が悲鳴を上げはじめたのだろうか。
実際には、私の思考はまだかなり物言う世界のほうにフィットしていて、ドでかい虫が出現すれば逃げ惑うし、赤ちゃんのギャン泣きがいつまでも止まなかったらイラつきもする。
でもそういう物言わぬ生き物たちをまじまじと眺め、ともに在ることで、私は自分の脳化されていない物言わぬ部分に出会えるかもしれない。愛猫の吐瀉物を抵抗なく受け入れ、赤ちゃんの視線に一寸のためらいもなく応えられる人間に、いつかなれるかもしれない。そんな期待を込めて、私はまた自然にでかけてゆく。