2018/02/22
誰かに手紙を書く時は何となく寒い日が多いような気がする。
今日も、部屋をストーブで暖かく保って、
マグカップに熱い紅茶を注いでから、わたしは文章を書いている。
わたしの書く文章は、言葉遊びでも、抽象的・詩的なものでもなく、
伝える意志と方向を持ってひとつひとつの言葉を選んだ、ある意味での手紙である。
わたしにとって大人が手紙を書くことは、
"今ここにいない誰か"に宛てて何か特別なことを伝えることで、
ちょっとした覚悟のいる作業だ。
だから環境を整えて、万全の体制で書かなくてはいけない。
インターネットネイティブ世代のわたしたちは、
"今ここにいない誰か"に何かを伝える機会に恵まれてきた。
インターネットで"今ここにいない誰か"に伝える手段といえば、
はじめはメールやブログ。その次はミクシィなんかが流行った。
それがツイッターに取って代わられるようになり、
メールは気づけばほとんど使わずLINEが当たり前になって、
極めつけはインスタグラムである。
今、十代の間では動画でコミュニケーションをはかるアプリが流行っているらしい。
こんなにもわかりやすく、わたしたちは文章で交わす言葉の数を減らしていった。
いつどこにいても、"今ここにいない誰か"に
今のわたしの気分や状況をリアルタイムに伝え、
相手のこともだいたいわかるような雰囲気になった。
それは便利で、直感的で、表現にあふれた素晴らしい世界。
言葉のもつ「伝わらなさ」が見事に克服され、
誤解も曲解も無くなっていくスムーズな世界。
色や形、質感、音などでイメージをそのまま共有する、超感覚的世界。
ここでみなさんが予想している通り、
わたしはこういった伝達方法について疑問を投げかける。
ひとつ。イメージをそのまま共有することは、
感覚の実体を掴めなくなっていくことではないだろうか?と。
例えば音楽を聴いているときに、「これ最高!」と音楽そのものをシェアする。
そのとき、なぜ自分がそれをすきなのか、考えなくなっていることに気づく。
もしそれが手紙ならば、どんな気分の時に聴きたいとか、思い浮かべる情景なんかを、
慎重に、言葉を選んで伝えるから、同時に自分のなかに言葉を使った感覚ができあがる。
そしてはじめて、自分はこんな風にこの曲を聴いていたのかと気づく。
どんなに頑張っても、他人と自分の感覚を"実際に"シェアすることはできない。
言葉を使わなくなっていくと、自分自身とのシェアすら
できなくなってしまうかもしれない、と少し怖くなる。
ふたつ。気づかないうちに、わたしたちは伝えすぎてしまってはいないか?と。
例えばツイッターでつぶやいた何気ない言葉は、
"今ここにいない誰か"に伝えたいことなのだろうか。
誰にもあてていないメッセージを伝える、というか垂れ流すことで、
伝えていることへの自覚が、意志が、薄れていく。
無責任な表現が、でもたしかに世に放たれた表現が、この世に蔓延する。
伝えることがあまりにもたやすくなってしまったから、
本当は伝えなくてもいいことまで伝えてしまう。
誰にあてるでもない、宙にぽかんと置き去りにされたメッセージとして。
手紙を書くことには、自分と向き合う力がある。
自分の中にある感覚を言語化することで、自分の感覚を知る。
そして手紙を書くことには、かならず意志と方向がある。
伝えたい内容があって、伝えたい相手がいる。
それがどんなに小さな出来事や日常的なことでも、
そのために言葉を選んで届けたいという意志が、そこにはある。
そんなわけで、わたしにとって手紙やそれに似た文章を書くことは
ちょっとした覚悟のいることだ。
伝える意志を持ち、伝える方向を決めて自分と向き合う作業。
超感覚的表現ではなし得ない、誰かとの、そして自分とのコミュニケーション。
だからわたしは、ツイッターもインスタグラムも大好きだけれど、
手紙を書くという行為を、どうしてもしたくなってしまうのかもしれない。
-----
2018年2月21日、水曜日。渋谷 喫茶SMiLEで行われた
「クララズ 新しいミュージックビデオ上映会」に寄せて。
今日も、部屋をストーブで暖かく保って、
マグカップに熱い紅茶を注いでから、わたしは文章を書いている。
わたしの書く文章は、言葉遊びでも、抽象的・詩的なものでもなく、
伝える意志と方向を持ってひとつひとつの言葉を選んだ、ある意味での手紙である。
わたしにとって大人が手紙を書くことは、
"今ここにいない誰か"に宛てて何か特別なことを伝えることで、
ちょっとした覚悟のいる作業だ。
だから環境を整えて、万全の体制で書かなくてはいけない。
インターネットネイティブ世代のわたしたちは、
"今ここにいない誰か"に何かを伝える機会に恵まれてきた。
インターネットで"今ここにいない誰か"に伝える手段といえば、
はじめはメールやブログ。その次はミクシィなんかが流行った。
それがツイッターに取って代わられるようになり、
メールは気づけばほとんど使わずLINEが当たり前になって、
極めつけはインスタグラムである。
今、十代の間では動画でコミュニケーションをはかるアプリが流行っているらしい。
こんなにもわかりやすく、わたしたちは文章で交わす言葉の数を減らしていった。
いつどこにいても、"今ここにいない誰か"に
今のわたしの気分や状況をリアルタイムに伝え、
相手のこともだいたいわかるような雰囲気になった。
それは便利で、直感的で、表現にあふれた素晴らしい世界。
言葉のもつ「伝わらなさ」が見事に克服され、
誤解も曲解も無くなっていくスムーズな世界。
色や形、質感、音などでイメージをそのまま共有する、超感覚的世界。
ここでみなさんが予想している通り、
わたしはこういった伝達方法について疑問を投げかける。
ひとつ。イメージをそのまま共有することは、
感覚の実体を掴めなくなっていくことではないだろうか?と。
例えば音楽を聴いているときに、「これ最高!」と音楽そのものをシェアする。
そのとき、なぜ自分がそれをすきなのか、考えなくなっていることに気づく。
もしそれが手紙ならば、どんな気分の時に聴きたいとか、思い浮かべる情景なんかを、
慎重に、言葉を選んで伝えるから、同時に自分のなかに言葉を使った感覚ができあがる。
そしてはじめて、自分はこんな風にこの曲を聴いていたのかと気づく。
どんなに頑張っても、他人と自分の感覚を"実際に"シェアすることはできない。
言葉を使わなくなっていくと、自分自身とのシェアすら
できなくなってしまうかもしれない、と少し怖くなる。
ふたつ。気づかないうちに、わたしたちは伝えすぎてしまってはいないか?と。
例えばツイッターでつぶやいた何気ない言葉は、
"今ここにいない誰か"に伝えたいことなのだろうか。
誰にもあてていないメッセージを伝える、というか垂れ流すことで、
伝えていることへの自覚が、意志が、薄れていく。
無責任な表現が、でもたしかに世に放たれた表現が、この世に蔓延する。
伝えることがあまりにもたやすくなってしまったから、
本当は伝えなくてもいいことまで伝えてしまう。
誰にあてるでもない、宙にぽかんと置き去りにされたメッセージとして。
手紙を書くことには、自分と向き合う力がある。
自分の中にある感覚を言語化することで、自分の感覚を知る。
そして手紙を書くことには、かならず意志と方向がある。
伝えたい内容があって、伝えたい相手がいる。
それがどんなに小さな出来事や日常的なことでも、
そのために言葉を選んで届けたいという意志が、そこにはある。
そんなわけで、わたしにとって手紙やそれに似た文章を書くことは
ちょっとした覚悟のいることだ。
伝える意志を持ち、伝える方向を決めて自分と向き合う作業。
超感覚的表現ではなし得ない、誰かとの、そして自分とのコミュニケーション。
だからわたしは、ツイッターもインスタグラムも大好きだけれど、
手紙を書くという行為を、どうしてもしたくなってしまうのかもしれない。
-----
2018年2月21日、水曜日。渋谷 喫茶SMiLEで行われた
「クララズ 新しいミュージックビデオ上映会」に寄せて。