2019/07/24
PARA / all about paradise
ニューヨーク ロンドン 宇宙の果て
UFO 飛ぶ彼方を
何億年も夢見ては
追いかけた あなたと
機能不全の組織
USO 飛ぶ最中を
何億年と暮らしている
シビレそうな あなたも
きっと知らない世界へダイヴ
保障はないけど
正解かな 不正解かなんて
投げ出してよ
とうに限界を超えているんだ
目を覚ませ
踊っていたい 答えのない
最新世界で
平成と令和 きたるフューチャー
時空を超えあなたを
何億年と見つめていく
もうひとりのあなたと
-----
3日前、急に帰省することを決め飛行機に乗った。
今日は101歳になる祖母が介護される様子を眺めていた。
もう自ら喋ることもなくなった祖母は、
誰かと目が合うとにっこりと笑顔を見せてすぐ無表情に戻る。
次々と口に運ばれてくる半流動食を飲み込みながら、
祖母が何を考え、何を感じているか
私にはほとんど見当がつかなかった。
私がめずらしく田舎の空気を求めたのは、
なんとなく最近のムードから逃げ出したかったからかもしれない。
立て続けに起こる悲しい事件や騒動、選挙などをめぐる議論が巻き起こり、
いろんなところで「違い」がぶつかりあっていた。
多様性の時代と言われはじめて、もうずいぶん経ったように思う。
「お互いの違いを受け入れよう」という社会の雰囲気は
みんなの自由を実現するためにあるはずなのに、
かえって窮屈に感じてしまうのは、なぜだろうか。
(( para-llel ))
血のつながった祖母のことさえもわからないのだから
どこか遠くの惑星に住む宇宙人なんかじゃなくて
一緒に演奏しているバンドメンバーのことも
たくさんの言葉を交わし合う友人のことも
私には、どうしたって実際に理解することはできない。
考えてみると当たり前のことだけれど、
私たち一人ひとりが生きている世界はすべて並行していて
どんなに近くにいる家族や恋人でも世界が交わることはない。
ケガを負った親友の痛みを、
私が実際に感じることは絶対にできないのだ。
頭ではそれをわかっているはずなのに、
私たちは普段、あまりに多くの情報を交換しあっているので、
どこかで理解しあえると思い込んでしまっている気がする。
(( para-lyze ))
それは一種の麻痺みたいなものだ。
情報があふれ、しかもその中には嘘だって紛れ込んでいるけれど
情報の渦に飲み込まれ痺れてしまった頭と心は、
「誰かと完全にわかりあうことなどありえない」ということを忘れ
自分のわからないものを突き放し、ついには攻撃しはじめる。
(( para-dox ))
──私たちは決して理解しあえないことを思い出そう。
違いが違いのままに存在することを受け止めよう。
私たちがいるのは、わかりあえなくて悲しい世界ではない。
それは想像するということ。
「普通に考えて」「常識的に」
それはきっと自分の知っている世界のなかでしか通用しない。
自分のなかにある 普通/常識 に逆らって
知らない世界に飛び込んでみようとする。
それが想像するということ。
101歳の祖母の喜びを、人を殺めた男の悲しみを、国会議員の痛みを、
香港に住む人びとの怒りを、障害者と呼ばれる人びとの楽しみを、
私が実際に感じることはできないけれど、想像することができる。
(( para-site ))
もちろん、いくら想像しても誰かを完全に理解することはできない。
だけど、理解できないことを知っている私たちは、
きっとなにかを超えてゆける。
違いを克服してひとつの正解を導き出そうとするやり方には
もうとっくに限界が来ている。
違いが違いのままに隣り合い、寄り添って生きる時代へ
私は自分自身の手をとって、連れてゆきたい。
ニューヨーク ロンドン 宇宙の果て
UFO 飛ぶ彼方を
何億年も夢見ては
追いかけた あなたと
機能不全の組織
USO 飛ぶ最中を
何億年と暮らしている
シビレそうな あなたも
きっと知らない世界へダイヴ
保障はないけど
正解かな 不正解かなんて
投げ出してよ
とうに限界を超えているんだ
目を覚ませ
踊っていたい 答えのない
最新世界で
平成と令和 きたるフューチャー
時空を超えあなたを
何億年と見つめていく
もうひとりのあなたと
-----
3日前、急に帰省することを決め飛行機に乗った。
今日は101歳になる祖母が介護される様子を眺めていた。
もう自ら喋ることもなくなった祖母は、
誰かと目が合うとにっこりと笑顔を見せてすぐ無表情に戻る。
次々と口に運ばれてくる半流動食を飲み込みながら、
祖母が何を考え、何を感じているか
私にはほとんど見当がつかなかった。
私がめずらしく田舎の空気を求めたのは、
なんとなく最近のムードから逃げ出したかったからかもしれない。
立て続けに起こる悲しい事件や騒動、選挙などをめぐる議論が巻き起こり、
いろんなところで「違い」がぶつかりあっていた。
多様性の時代と言われはじめて、もうずいぶん経ったように思う。
「お互いの違いを受け入れよう」という社会の雰囲気は
みんなの自由を実現するためにあるはずなのに、
かえって窮屈に感じてしまうのは、なぜだろうか。
(( para-llel ))
血のつながった祖母のことさえもわからないのだから
どこか遠くの惑星に住む宇宙人なんかじゃなくて
一緒に演奏しているバンドメンバーのことも
たくさんの言葉を交わし合う友人のことも
私には、どうしたって実際に理解することはできない。
考えてみると当たり前のことだけれど、
私たち一人ひとりが生きている世界はすべて並行していて
どんなに近くにいる家族や恋人でも世界が交わることはない。
ケガを負った親友の痛みを、
私が実際に感じることは絶対にできないのだ。
頭ではそれをわかっているはずなのに、
私たちは普段、あまりに多くの情報を交換しあっているので、
どこかで理解しあえると思い込んでしまっている気がする。
(( para-lyze ))
それは一種の麻痺みたいなものだ。
情報があふれ、しかもその中には嘘だって紛れ込んでいるけれど
情報の渦に飲み込まれ痺れてしまった頭と心は、
「誰かと完全にわかりあうことなどありえない」ということを忘れ
自分のわからないものを突き放し、ついには攻撃しはじめる。
(( para-dox ))
──私たちは決して理解しあえないことを思い出そう。
違いが違いのままに存在することを受け止めよう。
私たちがいるのは、わかりあえなくて悲しい世界ではない。
それは想像するということ。
「普通に考えて」「常識的に」
それはきっと自分の知っている世界のなかでしか通用しない。
自分のなかにある 普通/常識 に逆らって
知らない世界に飛び込んでみようとする。
それが想像するということ。
101歳の祖母の喜びを、人を殺めた男の悲しみを、国会議員の痛みを、
香港に住む人びとの怒りを、障害者と呼ばれる人びとの楽しみを、
私が実際に感じることはできないけれど、想像することができる。
(( para-site ))
もちろん、いくら想像しても誰かを完全に理解することはできない。
だけど、理解できないことを知っている私たちは、
きっとなにかを超えてゆける。
違いを克服してひとつの正解を導き出そうとするやり方には
もうとっくに限界が来ている。
違いが違いのままに隣り合い、寄り添って生きる時代へ
私は自分自身の手をとって、連れてゆきたい。